- HOME
- 観る
浄土宗 天龍山 法善寺
法善寺は、かつて京都宇治にあった浄土宗天龍山法善寺を、寛永14年(1637)、ときの住職である中誉専念法師が、現在の大阪難波の地に移転し誕生しました。
大阪ミナミの法善寺一帯の地域が「千日前」と呼ばれるようになったのは、専念法師が行った「千日念仏回向」に由来します。
江戸時代の難波近郊は、死者の焼き場、墓地、刑場などが集まる葬送の地でした。
専念法師は、刑に処された人や埋葬された人々を供養するため、千日間にも及ぶ念仏回向を勤めました。
明治時代に入ってから墓地は阿倍野へ移り、刑場は廃止されましたが、民衆に寄り添い続けた専念法師の功績は「千日前」の地名として残り、今日まで受け継がれています。
水掛不動尊
「水掛不動尊」「水掛け不動さん」と呼ばれ親しまれている法善寺の西向不動明王は、あざやかな緑の苔に包まれた珍しい姿をされています。どんな願いも叶えてくれる、苔むす姿のお不動さんです。
ある日、法善寺へお参りにやってきた一人の女性が、お供えされていた目の前の水を手ですくい、お不動さんに掛けたのがきっかけだと言われています。「願いを叶えて欲しい」と仏さまにすがる女性の強い思いが、今日まで続く“水掛け”の作法の発祥となりました。
法善寺横丁
千日前商店街から西へ伸びる、石畳の風情漂う幅2.7ほどの小路です。さまざまな地元グルメが楽しめる屋台、カフェ、居酒屋が並び、古き良き大阪を思わせる情緒ある路地です。
日本らしい景色でもあり、外国人観光客の方にも大変人気なフォトスポットとなっています。
商店街からこの道を通りぬけてゆくと、法善寺・水掛不動尊にたどり着きます。
千日山護法院弘昌寺
大阪・ミナミ、千日前のど真ん中。上方ビルの4階に本堂、3階に大師堂を構えた、真言宗山階派(しんごんしゅう やましなは)のお寺です。
江戸時代多くの寺が立ち並んでいた大阪ミナミの千日前。しかし明治以降の区画整理や戦災によって次々と失われ、2008年竹林寺の移転を最後に千日前から完全に寺が姿を消してしまいました。
「ミナミの将来を考えれば、必ず寺は必要だ」「寺があるからこそ、一本「芯」の通った街ができる。」
寺が姿を消したミナミの街の「軸」となるという、住職の想いによって弘昌寺は開かれました。
ミナミをショッピングだけの街にはしない。歌舞伎や浄瑠璃など、大衆芸能が大きく花開いたかつてのミナミの賑わいを取り戻し、本当の意味でミナミを再生するために。
弘昌寺は、その拠り所となり、ミナミの街を見守るお寺です。
南乃福寿弁財天
千日前商店街から、坂町通りを東に少し入ったところにある、「上方ビル」の入り口に、鎮座しています。芸能上達、家族円満、子孫繁栄を願い、奈良県・吉野の天河神社から弁才天(高野山岳弁天)の御霊を勧請しこのミナミの文化の発展と繁栄を願うため、発起人代表桂米朝、桂春団治他の有志によって平成18年に建立されました。
そばに湧いている龍水は、地下7mより組み上げた湧き水です。お手を洗い、心を清めてお参りください。
三友倶楽部 創業の地
三友倶楽部は、大阪・千日前に設立された大阪で初めての映画制作会社です。現在の千日前商店街の地で明治42年(1909)に創業しました。
千日前通りから商店街を50mほど北に入った東側のアーケードの柱に、創業の地を示す幅30cm×縦120cmの大きさの樹脂プレートが取り付けられています。
明治45年(1912)に大阪ミナミの大火災によって千日前一帯が焼失したため、三友倶楽部の創業者・山川吉太郎は、大正3年(1914)に千日前交差点角に大娯楽センター「楽天地」を建設。さらに「帝国キネマ」を創立し、大阪における映画製作の拠点を作り上げました。帝国キネマはその後「大映」を経て現在の「角川映画」となっています。