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千日前 名前の由来
諸説ありますが、この地域に建てられた法善寺と竹林寺で、死者を弔う千日回向という念仏供養を行ったことが由来とされています。千日回向とは、「一回参ったら、千日間参ったのと同じとする」というもので、当時大変な人気を誇ったと言います。
これらのお寺が千日寺と呼ばれ、その門前町を「千日前」というようになったのだそうです。
かつての千日前
千日前周辺の歴史は、大坂夏の陣で豊臣方が敗れたことで始まったといえます。
戦の後、大阪城代となった松平忠明が手掛けた市街地の再建により、この周辺の街が形成されました。
後に道頓堀と名付けられた堀が完成する頃、道頓堀から南に刑場や火葬場、墓地、灰山(なくなった方を償却した灰が山のように積まれている場所)が置かれました。また、道頓堀と墓地の間には、死者を供養するための法善寺や竹林寺などのお寺がつくられました。
かつての千日前の街は、現在の繁華街からは想像できないような、あまり人の寄り付かない、寂しい、怖い雰囲気のある場所でした。
繁華街となるまで
明治維新の後、近代化を目指す明治政府により刑場が廃止され、市街地を拡張するために墓地などは移転されました。その空き地の開発が絡み、それに伴う遊郭と芝居小屋の移動、幕府の街づくりなどがあり、楽園の街へと変わっていきます。
さらに阪堺電車、現在の南海電鉄の難波駅ができたことで人手が増え、街は一気に発展します。
芝居小屋と人形浄瑠璃小屋の設置に併せて芝居茶屋ができ、料理屋ができ、飲食店立ち並ぶようになりました。また芝居小屋に関係のあるカツラや飾り物などのお店が道頓堀にでき、繁栄していきました。
千日前は映画発祥の街
時代の移り変わりとともに、見世物小屋も段々と廃れていき、そこに代わって出てきたのが「映画館」です。
実は大阪映画の発祥の地が千日前界隈だと言われており、千日前には大阪初の映画制作会社がありました。活動写真館、三友倶楽部という会社で、映画産業をリードしたこの会社の歴史は創業地の跡地近くに設けられた記念碑で知ることができます。
映写機のリールをイメージしたレリーフで商店街の南東近くの柱に設置されていますので探してみてくださいね。
劇場や映画館がひしめく千日前は庶民の娯楽の街、エンタメのメッカとしてにぎわう一大繁華街となりました。